かもしれない

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「かもしれない」という発想によって人生を台無しにしたという、若き哲学者であり起業家のポール・ハドソン。彼はこれにより、人間関係が崩れ、数々の失敗を経験してきたという。

だが、「かもしれない」。なんて答えはないと悟った時、全てが変わったという。もし、今の自分の人生を変えたいと思うなら、「かもしれない」。思考をやめる必要がある。もちろん交通安全上においては「かもしれない」。運転は必要なこと。ここでいうのは、あまりうまくいっていないと感じる人の人生においてである。

「かもしれない」とは空想の産物に過ぎず、行く手を阻むだけである。
「かもしれない」と考えるたびにマイナス思考にひっぱられる。
「かもしれない」は言い換えれば「言い訳」にすぎない。
自分で自分にブレーキをかける理由として使っているのだ。

以下はポール・ハドソンがアドバイスする「かもしれない」が通用しない5つの理由である。

1.やるべきことを後回し、「まだいいかもしれない」。は通用しない

一部の人々、いやほとんどの人々は、やるべき事をつい先延ばしにしたがるもの。しかし、人は歳を重ねるうちに、どんなに先延ばしにしたところでやるべき 事からは逃げられない、という事実を経験から学んでいるはずだ。考えるのを止め、先延ばしにし、今やる必要はないと信じ込むのは、信じられないほど非生産 的である。

よく、物事を後回しにし、締切直前に取り掛かる方が、短時間で効率よく済ませる事が出来るというような話を耳にする。しかし、それは本当に効率が良いのだろうか?

そもそも課題に取り掛かるべきかと考えたり、一時的に頭から追い出そうとするエネルギーと時間こそ不必要なものではないか。避けたい物事について考えている、その精神的エネルギーが既に無駄なのである。

本当の意味での効率を考えるのであれば、やるべき事にはすぐに取り掛かるか、やらないと決めて忘れてしまうかのどちらかしかない。

「やる必要はないかもしれない」、「後回しにしてもいいかもしれない」、なんて言い逃れの選択肢はもとから無いのだから。それは怠ける為、そして責任を取らなくてはならない現実から逃れる為の言い訳でしかないのだ。

2.情熱を追い求めるのに「かもしれない」。は通用しない

「情熱があれば人生は変えられる」、とはよく言われるているし、実際あなたの周りにもそういう気持ちで情熱を追い求めている人がいるはずだ。私たちが情熱を求めるのは、より楽に一日を乗り切るためである。

情熱は人生の方向性を定めるためだけではなく、やるべきことを実行する時の心のモヤモヤを取り除いてくれるのだ。「やるべきか?、やらざるべきか?」この心の葛藤は、ほとんどの人が頻繁に感じているだろう。

だが、私たちの日常生活のすべてに心躍るような動機や理由を見つけられることなんてそうそうない。人間の生活なんて、元をたどればみな平凡な物事・日課・アクティビティだったに過ぎないのだから、そんなところに心が躍るような理由なんて見つかるはずがない。

そんな人生を乗り切るための力をくれるのが情熱である。情熱は私たちの人生に意味を与え、私たちの行動にそれ以上の価値があるかのように思わせてくれるのである。しかしながら、厄介なことに、情熱は常に私たちを動かすだけの原動力を備えている訳でもない。

情熱なんて役に立たない日もある。情熱があろうがなかろうが、ベッドから出る気さえない日はあるのだ。ほんのわずかな瞬間だけれども、たまに自分が存在 しなければ良いなんて考える日だってある。情熱は、追い求める事ができる場合に限って、非常に有効なエネルギー源となるのだ。

それは人生における「素晴らしいこと」にも言える。例えば愛をつかんでいる間は、愛はとても素晴らしいものとなる。ただ、人生の「素晴らしいこと」は、 そう簡単には手に入らない。だが、どんなに成果が出るのに時間がかかったとしても、情熱を追いかけることを止めてはいけない。

あなたの希望や夢が、あなたという人間を形作っているのだから。それらはきっと、あなたが人生で最も大事だと思える物へと導いてくれるだろう。

「かもしれない」という中途半端な気持ちのまま、情熱や夢を追いかけたならば、もちろん素晴らしい人生を手に入れることだってできるかもしれないが、同時に、うすっぺらい人生を送ることになるかもしれない可能性は否定できない。

3.恋愛に、「かもしれない」。は通用しない。

どんな人でも実際には、人間関係を構築するのが不得意である。これは誰かを愛することができない、という事ではない。気兼ねない人間関係を保つことができない、という事でもない。ただ人というものは、すべてのことにおいて優柔不断なのである。

愛は見つけるものではない。愛は創り出され、大切に守られていくべきものであり、それは私たちの決心そのものとも言える。そして何より、愛とは、自分自身を健全で愛情に満ちた人間関係の一部として捧げることだ、と言っても過言ではない。

仮に、あなたが彼や彼女を愛すると決心しなかったとしたら、今の恋人との関係が最後だと決断しなかったとしたら、あなたはその人間関係に本当の意味で関わる事が永遠にできず、それはやがて崩壊してしまうだろう。

愛について考えるときに、「かもしれない」なんて選択肢は無い。私たちの感情が揺れ動かないとは言わない。もともと揺れ動くようにできているのだから。 あなたの横に寝ているその人が、あなたの人生にとってもっとも偉大で素晴らしい存在だと思える日もあれば、単なる同居人と思う日もあるだろう。

感情とは気まぐれなもので、適切な判断を下さなければならない場面においては、あまり信用できるものではない。だが、愛とは決断なのだ。仮に誰かを愛し ている「かもしれない」ならば、そしてその誰かと一緒にいたい「かもしれない」のならば、それは、あなたが既に良からぬ状況が訪れる事を想定してしまって いる証拠である。

恋愛においては、身を入れるか、引くか、のどちらしかない。「かもしれない」と考えている事自体が、その恋愛を失敗へと導く一番の原因なのである。

4.望む人生を手に入れたいなら、「かもしれない」は通用しない。

この事実が一番興味深いと思うのだが、ほとんどの人は、今生きている人生を楽しめずにいる。生きている場所や、自分の生き方について不満を感じている。それなのに、現状は好ましくないと思っていながらも、変化を恐れていたり拒んでいる。

私たちは皆、今とは違う人生を夢見ている。より良い生活を、もっと自分が輝けて、居心地が良くて、人からも評価されるようなそんな人生だ。本当に人生を 変えたいと思うならば、今の生活を変えなくては始まらないのだ。そして、多くの人々にとって、この事実を受け入れることは非常に難しい。より良い人生を望 むにも関わらず、変化を拒み、嫌っているはずの現状にしがみ付いてしまう。

それは単に、私たちは楽をしながら、バラ色の人生を手に入れようとしているからである。誰しもが成功したい、賢くなりたい、見栄え良くなりたい、と考えてはいるものの、かと言って、それに伴う一切の試練を乗り越える気はそうそうない。

良い結果を出したいが、その為の犠牲は払いたくない。口をつくのは不平と不満、世の中が悪い、誰が悪い。だがそれは誰のせいでもない。答えは「やる か」、「やらないか」、しかないのだ。より良い人生を望むのならば、それを叶えるために全力で生きるしかない。誰もあなたを止めていない。ブレーキをかけ ているのはあなた自身だ。

5.「かもしれない」はただの言い訳。問題を先延ばしにしているだけ。

なぜ人間は、効率や決定力において、コンピューターに敵わないのだろうか。それは、コンピューターは常にイエスかノーの二択しか答えを持ち合わせていな いからである。コンピューターには「かもしれない」という選択肢が無い。彼らにとっては、するかしないか、有るか無いか、それだけである。

そもそも「かもしれない」なんて言葉は、人間の優柔不断さ、すなわち決断から逃げ回る為の言い訳を表現するために作り出された概念なのだ。「かもしれない」は答えには成り得ず、ただ答えを導き出すのを遅らせるだけである。

決定を下すとき、例えそれがどんな類の決定だとしても、「かもしれない」は選択肢にはなりえない。仮に、そんな選択肢が認められるならば、決定する事自 体に何の意味も無くなってしまうだろう。全ては具体性を失い、何事も成されることは無くなってしまう。やがて世界には何の変化も訪れなくなり、人生は存在 意義すら無くしてしまうだろう。

あなたを形作っている原子や細胞には、あなたの一部になろうかどうしようかなんて選択肢は無かったはずだ。ただ構成する事だけが彼らに与えられた使命であり、そうしなければ彼らに存在意義は無いからだ。

この世の文化が発展するにつれ、私たちはどんどん下すべき決断に取り巻かれ、責め立てられていく。しかし、私たちの身動きが取りづらいのは、下すべき決断の数のせいではない。その決断を先延ばしにする為に時間とエネルギーを浪費しているせいである。

選択肢はイエスかノー、あるかないか、なのだ。何かを決定するのに、何秒も費やすべきではない。決定に時間がかかるということは、決断を先延ばしにしている証拠であり、現実逃避と同じことなのだから。

「かもしれない」。は他者に向けられるといとも簡単に「そうに違いない」。に変わる。特にメディア、ネット上で拡散された情報など、最初は「かもしれな い」。で見ていたはずなのに、突如「そうに違いない」。に変わる。脳は自分の都合のいいように解釈するが、一度思い込んでしまうとなかなかに修正がきかな い。そうやってできあがるのが偏見や冤罪だ。

情報に触れれば触れるほどメガネが汚れてくるかのごとく、公正な判断を下せなくなる。不確定要素が多く、事実が確認できないようなものに対しては、「かもしれない」。のままにとどめておく方がいいのかも。

参照 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52184984.html

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